投資 

ここでは、価値指向の投資と関係が深い、価格と価値の関係についてコメントしたいと思います。これは投資と投機との境界線を形作る中核的コンセプトであり、また同時に金融市場と財・サービス市場・企業とのつながりに大変大きな影響を与えています。

さて、価格と価値と言われて、違う気がするがそれがどう違うかはわからない、また、価値とは抽象的で一方、価格は具体的に数字として表示されているもの、という意見もよく耳にします。

そもそも、なぜ価格(または市場価格)が必要なのでしょうか?

通貨の歴史では、物やサービスを交換し合うために通貨ができて、その通貨の単位が価格を示すために使われたといわれています。また金融証券の取引では常に大量の取引が行われています。これをよく流動性と呼んでいますが、流動性がないものは売り買いが容易にできないですね。

こう書けばお分かりだと思いますが、価格とは流動性を維持するための条件です。価格の機能は、売買を成り立たせるために必要な機能であり、同時にある特定の価格は、そこで売り手と買い手が合意しモノやサービスの権利が移転するための条件なわけです。価格の機能は、天秤で例えればいいと思いますが、左右に分かれている売り買いが釣り合うポイントを探し出して、また、取引を成立させるという便利な機能であるわけです。もしも仮に通貨による価格表示がなければ、已む無く直接の交換が行われるでしょう。しかしそれは到底円滑に社会での経済活動を支えることはできません。

一方で価値には、そもそも、広く一般に何か役に立つような機能があるとは思えません。オンラインでもオフラインでも、売り場には商品の価格は表示されていますが、価値の表示はありません。売り手には費用や原価の意識はありますが、それは別に価値とは関係がありません。骨董品などでこれは価値があるものだ、と言われたりしますが、その場合の価値というのは価格として表示されていない値打ちという意味でしょう。実体が隠れているよ、という意味ですね。また、私はXXの価値を知っていると言えば、なにか大事で隠れた秘密を知っていることを指しているようですね。結局、この次元では価値というのはそういった文脈で目に見えない実体を指す抽象的な言葉にすぎないように見えます。

では、価値とは何なのでしょうか。

Piggy Bankを思い浮かべてはいかがでしょうか。そしてそれには特別にコインを入れるだけでなく、その出口もついているものを考えます。

ファイナンスの世界で、一般に価値を計算する公式は、将来のフリーキャッシュフローの現在価値と現在のネットでの現金残高の合計というものです。

ファイナンスの教科書などでは、それをもとに計算例もたくさんありますね。(自分は本格的に、という向上心が高い方にはNYUのProf. Damodaranのこのプレゼン資料 をご覧いただければと思います。彼のスタイルでまとめられた良いものだと思います。)

そういった教科書的に正確な形を理解せずに、その大体の形をアイディアとして得る、私のおすすめのPiggy Bank的イメージは、こういうことです。

企業の証券にせよ不動産にせよいわゆる金融資産であれば、時間の経過でその活動から利益が上がります。

そして現金収入がチャリンチャリンと貯金箱に落ちて、そして活動を支える必要な支出がその貯金箱から持ち出されます。差し引いた現金収支が貯金箱にたまっていきます。

価値を考えるとき、実は見えないこの貯金箱の形を見ようと頭脳が回転し努力しています。

財務分析や企業・業界分析を行うのも、それに近づくための手段であるが故です。キャッシュフローの形は数値的な角度から、そして企業や業界分析は数値の背景にある経済活動を具体的な形としてイメージして評価するためです。

また、将来にわたってこの貯金箱はずっと今見えているのと同様に見え続けるのか。それともその形やその周りの状況はどう変わる可能性があるのか。こういった変化は不確実性を伴うリスクとして理解します。

こういうアプローチで考えることで、価値を正確ではありませんが、近似的にとらえていこうというのが、長期投資を行う人間の気持ちの在り方です。

よく誤解があるのですが、株価評価は数学的な公式や様々な計算を経ているから、それが主観的判断から離れているという見解があります。これは大きな誤解です。

株価評価は様様な前提や仮説を主観としてくみ上げたものの数値としての表現型にすぎません。したがってそれは常に主観的です。また、それがゆえに価値評価の精度には現実的には限界があります。現実にはある程度の幅を取って解釈せざるを得ません。(ときには大きな幅が必要です。)いわゆる目標株価、のような指標は株価評価の一つの使い方です。しかし、それが独り歩きしてまるで一意に決まる株価評価が最も優れたもので目標にすべきだ、などと考えるのは、非現実的かつ非実務的なアプローチです。

価値とはサイエンスというよりアートであり、また、サイエンスであるとしても量子力学的揺らぎがある世界です。

<*価値は将来のキャッシュフローという未来に属するため、ブラックボックスの中にあり明示的ではありません。将来のキャッシュフローの確率に依存するならば、それは量子力学のシュレディンガーの猫のような重なり合った状態といえるのかもしれません。ただ箱を開ければ状態が収束した猫と違って価値と株価は並行して同時に存在しています。時間という次元を間にして。>

さて価格と価値をここまで触れたわけですが、いったいそれでどう違うのか比べてみると

 

  • 価格を軸にする場合は、価格を直接動かす要因を探し、それらの変化を予想する。人よりも早く正確に予想することがカギ。また価格を動かす仕組みを様々な金融サイエンスで、より細かく分析することも役に立つ。また価格は常に明示的。
  • 価値を軸にする場合は、価値が価格に対してどの水準にあるのかと、その価値自体が今後どのように変化する可能性が高いか(またはこういう分析には適さないか)を分析する。現在の余裕度と将来の変化の確実性と方向性をすべて合わせたうえで、慎重な立場に立って数年後までのスパンで満足できるリターンがあると言えるのかを評価する。

 

近年は必ずしも絶好調とはいいがたいですが、あの聡明なBuffettはこういっていますね。価格は支払うものであり価値は自分が入手するものだと。

彼の言わんとするのは、取引対価としての価格と価値という貯金箱に落ちてたまるキャッシュを指しているわけですね。

現実には価格指向の取引が圧倒的であり、“人よりも早く正確に”という課題を背負って取引を行うことが重要視されます。こうなると、いわゆる群衆による活動に典型的な状況が生まれます。

まず一つ目が、群集心理にとらわれたことで現実以上に行き過ぎた楽観と悲観の波が激しくなり、短期の事業サイクルが市場の変動をあるべき水準以上に大きくしてしまうことです。

自身の強い確信の根拠がない人が、他人が動き始めると動かないとという教義に浸かっていれば、株価の動きが心理的安心感と不安感という両極をもつ振り子を揺らしてしまいます。

また次に、株価水準を動かす情報の有用性を皆が群衆的に評価する結果、同質的な情報に均質に反応する市場を作り出します。異質性によるリスク分散が消えていきます。典型的には、インターネット上でのニュースやツィートなどを収集分析して、その結果と株価の動きを分析するファンド会社も珍しくありません。

株価を動かす要因を分析し追求していくことは、株価は常に正しいという表現にも後押しされて、より価格を軸にした市場の群衆化を強めていきます。<*株価は常に正しいという表現が、常に謙虚であらゆるリスクの可能性を否定しない中立的な姿勢を貫こうという意味であれば有益な表現ですね。しかし市場価格が結局すべてだからそれが動けば動くのは当たり前だという、価格指向の姿勢を正当化する意味だと解釈する向きもありますね。あらゆる表現は読み手側のロジックによって処理されるものですね。>

有名なたとえでは美人コンテストがありますね。それぞれの参加者は自分が一番美しい人を選ぶのではなく、他の参加者の心を最も捉えそうな人を選ぶわけです。判断の基準は自分の中にあるのではなく、他人たちの平均値の中にあるわけです。それが大きな規模で行われれば、皆が価格に持つ期待を揺るがして、その確信度合はろうそくの火のように不安定で落ち着きがなくなります。そしてそれをさらに“人よりも早く正確に”予想しようとする試みが続いていきます。より落ち着きが失われるわけです。

(この延長に行動経済学やナッシュ均衡のゲームがありますね。ゼロから100の整数を選んで全員の選んだ数値の平均値に一番近い数値を予想した人が勝つというタイプのゲームですね。)

私はこういった価格指向の市場の動きは、1)取引時間を極限まで短くしたナノ秒の微分の世界に達する、2)サプライズを探して情報収集を川上までたどって源泉に近づくという帰結をたどったと思っています。前者は本としてはFlash Boysで出版されましたし、後者はヘッジファンドのインサイダー取引問題にまで達したと考えています。

個人的にも東海岸のヘッジファンドでの最先端ネットワークの開発の一端にテクノロジー企業調査の一端として触れたことがあり、そこで求められている技術水準や投資が驚くほどの高い要求水準で、CTOの方が市販されている通信半導体や部品などをカスタム化・超高速化した特殊な仕様で固めていると話されたことを今だに覚えています。

価値を探すアプローチは、それが即効的な株価の動きの予測に基づいていないので、(結果として非常に高いリターンにつながることがありますが、それを最初の目的とはしていません。)大当たりを探すというアプローチとは性質が違います。

逆に、大当たりが生まれるためには、それに応じて必要な不安定さがつきものですが、その不確実さが投資として許容できるのか否かという要件をクリアーできなければ、対象外という扱いになります。

つまり価値が投資として利用できる条件を満たすには、リスクという許容範囲の線をひくことが必要なわけです。

こう申し上げたものの、具体的にどこで線引きするのかというポイントは、過去の積み重ねと習熟としか言いようがないですね。そして付け加えれば、ここでの線引きするために視野に入れるべきリスクは、微分値である動的価格変動の程度とその変動が持続する時間幅で測られた積分値とみるべきだと思います。

明確なほうがいい、と境界線のグレーゾーンを減らそうとすると制約的になり、かえって望まなかった機会ロスが生まれます。そしてこれは数値化できない面もあります。価格変動とリスクは価値指向で考えれば同一ではないですし。

また、業界や市場ごとでもそのさじ加減が異なります。またその場合に視野を広く持たないと全体的判断ができなくなります。例えば、ある特定領域だけを見ている人間(中小型株専門のアナリストやエマージング専門に特に顕著だと思います)にとっての線引きのラインは、広い領域で過去の様々な良い悪い局面を味わってきた人間にとってのそれとでは、間違いなく違います。

どれが正解というわけではありません。正解は複数ある世界です。現実にはこういう違いを理解して、異種(heterogeneous)な見解を縫い合わせて違いを違いとして残しながら、それぞれのプロセス(ポートフォリオ)に応じて、グレーの中で良いものやこれからよくなるであろう可能性に賭ける合理性があるものを限定的に取り入れて、上手に捌いてポートフォリオに落としていくのが、価値の形であるリスクへの対処法だと思います。

この辺りは、さまざまな状況での成功と失敗の経験を数多く重ねて感覚的に学習することで、それぞれのプロとしての力がついてきます。

話題が抽象的で、どこまでお伝えできたのだろうかと感じてはいます。価格を価値に従属する変数として、そして市場をその場としてみることは、私どもの考えをご理解いただく大事な一歩だと思います。

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